文豪図鑑まとめページに戻る

徳田秋声 声: 渡辺拓海
武器 派閥 尾崎一門
代表作 縮図 あらくれ
回想 あらくれ 破戒 高野聖
金色夜叉

努力家で誰よりも努力していることは確かだが、如何せん目立たず存在感が薄いことは否めない。それを気にしているのか性格はひねくれ者であまのじゃく。同郷の兄弟子である泉鏡花からも振り回されていた他、師匠の尾崎紅葉にも一度入門を断られていたらしく、その苦労性は天性のもののようだ。

モデルになった徳田秋声はこんな人!

筆名:徳田秋声
本名:徳田末雄
出身地:金沢県金沢市横山町
生年月日:1872年2月1日
没年:1943年11月18日(満71歳没)

生涯

加賀藩家老横山氏の家臣徳田雲平の三男として誕生。家は明治維新後に苦しい生計を立てていた没落士族であった。

第四高等中学校時代に上級生から小説家になる事を勧められ、立志。

1892年に尾崎紅葉に入門しようとするが、若すぎることを理由に断られてしまう。

その後郡役所の雇員、新聞記者、英語教師などの職を転々とした。

1895年に博文館の編集部に就職すると、泉鏡花の勧めで改めて尾崎に弟子入り。
泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉とともに紅門の四天王と称されるようになる。しかし尾崎門下にあっては作風が地味で、4人の中でもっとも影が薄い存在だった。

尾崎の死後、自然主義文学が台頭するようになると、徳田の写実的な文学性が時流に合い、注目を浴びるようになっていく。

1908年には『新世帯』を発表し、自然主義への転換を果たした。

1912年に私小説『黴』が単行本化されて話題を呼び、徳田は自然主義文学の担い手として文壇における地位を確立する。

1917年ごろからは通俗小説も多く執筆するようになり、自然主義文学だけでなく大衆作家としても人気を得るようになっていった。

1920年代後半に山田順子とのスキャンダルが発生し、潮流も自然主義文学から外れていったため、それ以降しばらくは作家活動が低迷。

その後プロレタリア文学が退潮すると、文芸復興の波に乗って再起を果たした。

作品の特徴

「次第に好奇心の薄らいで来た笹村は、憑いていたものが落ちたように、どうかすると女から醒めることが時々あった。
そんな時の笹村の心は、幻影が目前に消えたようで寂しかった。
そうして一度頓挫した心持は、容易に挽回されなかった。厭わしいような日が幾日も続いた。」(『黴』より)

尾崎一門出身だが、後に自然主義文学に転向して成功を収めた作家。

これは元々の文学性が自然主義に近く、華美な戯作を好む尾崎一門の作風と合っていなかったことが大きい。

活動中期には通俗小説を多く手がけたため芸術的な観点からいえば衰退したが、多くの読者層に愛されるようになったともいえる。

晩年には円熟期を迎え、第1回菊池寛賞受賞を受章するほか、帝国芸術院会員にも選ばれている。

人間関係

【尾崎紅葉】

師匠。

【泉鏡花】

尾崎門下の同輩であり、徳田を尾崎門下に誘った恩人。

第四高等中学校時代の後輩でもあるが、当時はお互いに印象が薄かった。

【室生犀星】

友人。

低迷期の徳田を励ますため、井伏鱒二らとともに秋声会を結成し、機関誌『あらくれ』を創刊した。

【島崎藤村】

友人。自然主義文学をともに担った。

徳田秋声後援会を組織して義援金を集め、低迷期の徳田を支えた。

趣味・嗜好

【恋愛観】

作家の山田順子とスキャンダルを起こした。

妻・はまの死後、順子は徳田の愛人として入り込む。

それがジャーナリズムを刺激したばかりか、徳田は『順子もの』と呼ばれる短編群でその関係を赤裸々に明かしたため、大いに世間を騒がせた。

徳田は順子との結婚を考えていたが、順子の身持ちが悪くあちこちの男性と関係を持ったため、最終的に追い出している。

若い女に引っかかって振り回されたとも、老境に差し掛かった徳田に男としての自信を回復させたともいえる。

代表作

『黴』
手伝いのばあさんの娘・お銀との間にずるずると関係を結んだ作家・笹村の物語。

お銀の出産・結婚を経ても不毛な愛に耐え切れず、笹村は家出して別の女と関係を持つ。

自然主義文学への転換点となった作品。

『縮図』
徳田最後の長編小説。

置き屋を営んでいた元芸者の小林政子をモデルに、芸妓の世界を描いた。

『あらくれ』
さまざまな男性と関係を持ちながら、たくましく自立をめざしていく女性・お島の半生を描く。

もっと詳しく知りたいなら?

徳田秋声記念館

徳田の故郷・金沢の記念館。徳田が生まれ育った区域に建設された。

文豪図鑑まとめページに戻る